ミトコンドリアと躁鬱

私めは大学・大学院そして研究所生活の中で常にミトコンドリアを主たるテーマにして研究してきました。
神経疾患とミトコンドリアの研究は学生時代から取り組んでいるテーマの一つであり、自分も鬱になったことがあるので興味のある研究でした。

精神疾患でどのくらい多くの人が苦しんでいるかご存知でしょうか。何となく自分には縁がないような感じとか思っていませんか?例えばパニック障害では日本人の100人に1人は罹患しています。また、精神分裂病躁鬱病双極性障害)にしても同様に100人に1人は病気になるくらいなのです。僕の周りには何十人もの精神疾患を患っている友達や同僚・知り合いがいます。貴方の身近な友人知人にもいるはずです。もしかしたら貴方自身が罹患しているかもしれません。

精神疾患は患者さん本人だけではなく家族や社会にも様々な負担を与えている上、その原因がよくわからないために、患者さんやご家族は世間の偏見にいつもさらせれています。家族が偏見を持つ事もたくさんあります。精神疾患の原因を解明し、その治療法・診断法を開発するとともに偏見を無くすことが急務です。

僕が今チームで研究していることを列挙します。

「躁鬱とミトコンドリアのCa2+シグナル制御機構」

躁鬱病の原因は、セロトニンなどのモノアミンに対する細胞内情報伝達の変化と考えられています。双極性障害では、磁気共鳴スペクトロスコピーにより脳エネルギー代謝異常が見られたこと、ミトコンドリア遺伝子多型が関連していたことなどから、ミトコンドリア機能障害が存在する可能性があります。近年、ミトコンドリアが細胞内カルシウムシグナリングに重要な役割を持つことが明らかとなっており、ミトコンドリアによるカルシウム制御の障害が躁鬱病の本態である可能性があるので研究中です。また、ミトコンドリアにcalpainが存在することを立証しており、mt-calpainがミトコンドリアカルシウムシグナリングの中心的役割を果たしていることを各種カルパイン阻害剤や抗癌剤を用いた実験で確認しています。

躁鬱病は、躁状態うつ状態という病相を繰り返す病気である。鬱病を含むとの誤解を招きやすいため、現在では双極性障害(Bipolar Disorder)と呼ばれることが多い。躁・うつの病相が治れば、健康な人と何ら変わりない生活ができるが、躁状態時の尊大な態度や莫大な借金などで社会的信用を失い、才能ある人が社会的生命を失うこともある。リチウム、カルバマゼピンバルプロ酸などの気分安定薬が有効であるが、効果不十分、強い副作用などにより、結局は服薬を中断し、再発を繰り返すことが多い。その上、躁鬱病患者は、4人に1人が自殺により死亡するといわれ、生命予後にも重大な影響がある。

治療薬の作用から、その症状にセロトニンノルアドレナリンドーパミンが関与することは明らかであるが、これらにかかわる遺伝子多型と躁鬱病の関連ははっきりしない。患者の血小板で、セロトニンおよびトロンビンに対する細胞内カルシウム反応が亢進しているというよく一致した所見、およびリチウムがイノシトールリン脂質−カルシウム系に働くという事実などから、この経路の機能変化が躁うつ病と関係すると考えられる。

躁うつ病の原因には遺伝要因の関与が大きいが、遺伝子連鎖解析が盛んに行われてきたにもかかわらず、原因遺伝子は未だ一つも見出されていない。多因子遺伝による複雑疾患であること、動物モデルがないこと、躁うつ病に特異的な神経病理所見が何一つないことなどがその研究を困難にしてきた。

これまでニューロサイエンスの中で、精神疾患研究の占める割合は低かったが、ここ数年、日本でも複数の大型プロジェクトが動き始めるなど、精神疾患を最先端の神経科学的手法により解明しようという気運が高まりつつあり、脳画像、分子遺伝学的研究、死後脳研究などにより、躁うつ病の原因が解明される日も近いかも知れない。  

■なぜミトコンドリア

躁うつ病患者においてリン磁気共鳴スペクトロスコピーを用いて脳エネルギー代謝を調べ、細胞内pHの低下、クレアチンリン酸の低下、光刺激に対するクレアチンリン酸反応の異常などの所見を得た。特に、光刺激に対する反応は、ミトコンドリア筋症の一つである、慢性進行性外眼筋麻痺の所見と類似しており、これらの所見がミトコンドリア機能障害を反映している可能性が考えられた。

その後、臨床遺伝学的研究により、母系遺伝(ミトコンドリア遺伝)の関与が疑われることが指摘された。躁うつ病患者の死後脳では、ミトコンドリア遺伝子(mtDNA)の欠失が増加していた。また、mtDNA 5178/10398多型と躁うつ病が関連していた。

ミトコンドリアとカルシウム

しかし、なぜミトコンドリアが躁うつの症状と関係するだろうか。

近年、細胞内カルシウムプールとしてのミトコンドリアの役割が再認識されている。ミトコンドリア阻害薬投与で細胞内カルシウム反応が変化すること、mtDNA変異を持つ細胞でカルシウム反応が変化することなど、ミトコンドリア機能障害がカルシウム反応の変化を引き起こすことが知られている。

ミトコンドリアは小胞体との間に密な接触がある。IP3受容体から放出されたカルシウムは、近傍のミトコンドリアに取り込まれ、その後ミトコンドリアNa+/Ca2+ exchanger (mNCE)により排出される。躁うつ病の中でも、軽躁状態うつ状態を呈する双極II型障害に奏効するといわれているclonazepamは、このmNCEの阻害薬である。

これらの事実を結びつける仮説として、ミトコンドリアの機能障害により、細胞内カルシウム制御機構が変化した結果、セロトニンなどに対する細胞内情報伝達機能が変化することが躁うつ病を引き起こすとの仮説に至った。通常はストレスに対して次第に慣れの現象が生じるが、躁うつ病では逆に次第に弱いストレスでも再発しやすくなる現象が見られ、これを精神刺激薬投与で見られる類似の現象に対応させて、行動感作仮説と呼ばれている。細胞内のカルシウムが上昇しやすい状態であれば、シナプス伝達の可塑性にも影響を与える可能性があり、これが躁うつ病で見られる行動感作現象を説明できるかも知れない。

躁うつ病におけるミトコンドリアによるカルシウム制御の研究

サイブリッドによる研究

mtDNAを失った培養細胞(ρ細胞)を、患者または健常者の血小板と融合させる。血小板は、mtDNAは含むが、核を持たないことから、核遺伝子は全く同一でありながら、mtDNAが患者や健常者と同じ、という細胞ができる。これをサイブリッドと呼ぶ。この細胞について、ミトコンドリア膜電位に差があるかどうかを検討すると共に、ミトコンドリア蛋白の一部をつけた、カルシウム依存性蛍光蛋白、Pericamを発現させたローゼロ細胞を作成し、この細胞とのサイブリッドを作成することで、ミトコンドリア内のカルシウム濃度がmtDNA多型により変化するかを検討している。

またミトコンドリアDNAについては、通常の方法を用いたノックアウトマウス、トランスジェニックを作成することができない。そこで、ミトコンドリアDNA合成酵素、ポリメラーゼγに、点変異を導入し、複製能はあっても校正能のない酵素とし、これを組織特異的に発現させることで、神経細胞特異的にmtDNA変異が蓄積するトランスジェニックマウスを作成した。このマウスを用いて、mtDNA変異の蓄積が、カルシウム代謝にいかなる変化を生じるか、行動学的にいかなる変化を示すかについて検討している。

理研では躁うつ病によく似た行動異常を引き起こすモデル動物の開発に成功し、ミトコンドリア機能障害が躁うつ病の原因の一つであることを示唆していることを明らかにしたようです。最近では、海外でもこの仮説が認められ始めており、米国・ハーバード大学や米国立保健研究所(NIH)などで、ミトコンドリア精神疾患の関わりについての研究が行われています。